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14:成功には必ず、強い情熱と行動力が伴う  ウォーレン・バフェット

成功の条件

いまや世界有数の富豪として日本でも有名なバフェットさんですが、どのようにしてその成功を築き上げていったのでしょうか。バフェットさんのあまり知られていない側面である、情熱や行動力を紹介しましょう。

投資家としてのスタートをどのように切ったか

1930年、バフェットさんはネブラスカ州のオマハにて、株式仲介人のハワード・バフェットとレイラ・バフェット夫妻のもとに誕生しました。子供の頃から、数学的な才能を発揮し、さまざまなゲームを発明するなど、才気を感じさせるエピソードが多かったようです。
バフェットさんは6歳の頃、近所の家を1軒ずつ回ってチューインガムとコカ・コーラを売り始めました。その際、5枚組のチューインガム1パックの利益である「2セント」を死守するため、決してばら売りしなかったという話もあります。やはり、子供の頃からビジネスの才能があったのかもしれませんね。
さて、その後バフェットさんは20代半ばで「バフェット・アソシエイツ」という会社を立ち上げます。ここから投資家として本格的な活動を開始するわけですが、ここで持ち前の行動力を発揮するのです。 当時バフェットさんは、30万ドル程度の資産を運用していましたが、さらに資金を集めるため、オマハで家族同士の付き合いをしていた医師のエドウィン・デイビスさんとドロシー・デイビスさんの夫妻に、「自分がどのように資産を運用しているのか」を説明したのです。その後、デイビスさんのもとに足しげく通い、“I need your 100,000 dollars.”と説得を続け、出資を引き出したのです(当時の10万ドルといえば、現在の数百万ドルという大金です!)。当時のバフェットさんは、まったく身なりに構わず、みすぼらしいセーターと古いズボン、すり減った靴といういでたちだったといいます。そんな若いバフェットさんに大金を出資したデイビスさんもすごいですが、やはり成功の裏側には、並々ならぬ熱意と行動力があるものなのです。
その後、バフェットさんは試行錯誤して、間違いも犯しながら、今のバークシャー・ハサウェイを築いたのです。
バークシャー・ハサウェイはもともと買収した繊維会社でした。繊維事業を良くすることをバフェットはついぞできなかったのですが、買収したときにバークシャー・ハサウェイにあった現金を投資し始めて、そこそこの利益を上げました。それが今日のバークシャー・ハサウェイという大投資会社のタネ銭になりました。

弁護士だったマンガーさんを猛烈に誘った

デイビスさんは、実は出資だけでなく、バフェットさんの成功を決定づける大きなきっかけを作り出しています。それは、のちにパートナーとなるチャーリー・マンガーさんとバフェットさんを巡り合わせたことです。
実はデイビスさんは、バフェットさんに出会ったとき、当時弁護士をしていたマンガーさんの姿をだぶらせたそうです。 マンガーさんを紹介されたバフェットさんは、すぐに意気投合。当時マンガーさんはロサンゼルスに住んでいましたが、お互い話は尽きず、電話で1〜2時間話すこともざらだったようです。ときには9ページにもわたる手紙を送ったりするほどだったということからも、出会った頃から、バフェットさんがマンガーさんを将来的なビジネスパートナーとして見ていたことが察せられます。
その後、バフェットさんは、弁護士として安定的な収入のあったマンガーさんに対して「君には投資のほうが向いていると思う」と、一見すると無謀なパートナーシップの提案を始めます。それからは、デイビスさんのときと同様、毎日のように「来てくれ、来てくれ」と熱烈に誘っていたようです。最後はマンガーさんもバフェットさんの熱意に折れ、共同経営者となり、いまではバークシャー・ハサウェイの副会長としてバフェットさんを支え続けています。どんなビジネスにおいてもパートナー選定は非常に重要ですが、その最適な選択を実現するのも、やはり熱意と行動力があってこそ、ということですね。
あまりグリーディ(貪欲)なイメージのないバフェットさんですが、実は「商売を始めるにあたって、リッチになりたいと思わなかった日は1日もない」と述べるほど、成功に対して執着があったようです。ビジネスパーソンとしての成功においても、やはり同様のことが言えると思います。ご自身の情熱の源泉はどこかということを突き詰め、積極的に行動していけば、これまでにない成果を収められるかもしれません。

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